198. 庭に埋めた小瓶

 最近は、できるだけ睡眠を優先するように過ごしています。趣味やエンタメを楽しむ時間も捨てがたいのですが、まずは寝ること。もちろん完璧に守れない日もありますが、少しでも体を休めることを意識するようになりました。

残業が多い日は「とりいれ」がゼロになってしまうこともありますが、それもまた仕方のないことです。残業の夜は深夜0時前後の就寝、早めに上がれた日は21時頃には布団に入るようにしています。そんな日は途中で1〜2回ほど目が覚めてしまいつつも、浅い眠りと深い眠りを繰り返しながら、よく夢を見ます。

夢に現れるのは、決まって過去のワンシーンです。当時の自分や友人たちとの関係性を思い出してみると、今とは感性や感覚がまるで違っていたのだと痛感します。もっとこう、純粋でピュアだったなと感じるのです。月日が流れ、いつの間にか自分もずいぶんと擦れて大人になってしまったものだと思います。

ふと、昔友人からかけられた言葉を思い出しました。「どうしたら、こんな風に育てられるんだろうね」という言葉です。当時は優しいニュアンスで言われたこともあり、どこかお母さん目線のような不思議な一言だなと首を傾げていました。

後日、妻にその話をしてみたところ、「は? お義母さんだったら絶対に大変だったと思うけれど」と一蹴されてしまいました。自分でもよく分かっているのです。どうひっくり返しても、手放しの褒め言葉ではなかったのだろうと今なら思えます。それでも、普通に生きていてなかなか言われない言葉だからこそ、当時の自分には何か今の自分にはないピュアな部分が残っていたのかもしれない、などと都合よくポジティブに解釈してみたりもします。

世の中のさまざまな荒波を知る前の、甘酸っぱく無垢だった頃の記憶。なぜ今になって急にそんなことを思い出したのかは分かりませんが、思い出してしまったものは仕方がありません。当時は本当に何も考えておらず、だいぶ幼かったのだと思います。

昔は昔、今は今。同じ人間であっても、時期によってほぼ別人と言っても過言ではないのかもしれません。得るものもあれば失うものもあり、それを一概に「成長」と呼ぶつもりはありませんが、外側も内側も時間とともに変化していくのが人間というものです。万物流転、などと少し大げさな言葉が頭をよぎりますが、要するに「昔の夢を見て、当時の感覚が少しだけ蘇ってきた」というだけの話です。

ただ、脳内で反芻される過去の記憶というのは、必ずしも正確な記録を再生しているとは限らないそうです。そう考えると、今朝感じたあの甘酸っぱい感覚も、一体何だったのでしょうか。考え出すとキリがありませんが、まあ概ね合っているということにしておきましょう。記憶を外部装置に保存するような時代もどこか恐ろしい気がしますし、たまにはこんなノスタルジックな想いに浸るのも、ある中年男の朝の風景として悪くないのかもしれないですね。

今回の思考実験は「庭に埋めた小瓶」

過去の自分は、今の自分を制限しているのか。社会環境の変化により自分が更新される感覚と不変である感覚。接続と断絶の狭間を考える。

以上です。

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