投稿

166. ホッピング

 暦の上では春の足音が聞こえてくる頃ですが、現実はそう甘くはありませんね。一旦は緩んだかのように見えた寒さも、録音している今が二月の中旬ということもあって、やはり芯から冷える毎日が続いています。 最近の私といえば、外出時の靴下用カイロが手放せなくなってしまいました。といっても、これは自転車に乗る時限定の話なのですが。仕事の帰り道、真夜中に自転車を走らせていると、手足の指先の感覚が次第に遠のいていくのが分かります。手の指先は二重の手袋でなんとか誤魔化していますが、足の方はそうもいきません。靴下の二重履きはもちろんのこと、つま先に貼る専用のカイロという素晴らしい文明の利器を導入し、「ああ、まだ足は凍っていないな」と生存確認をする日々です。時折、マメに指をグーパーと動かして血流を促さないと、冗談抜きで壊死してしまうのではないかと気が気ではありません。手を上下に大きく振るのが効果的だと聞き、半信半疑で試してみましたが、いくらか効いているような気もいたします。 自転車といえば、この四月からはいよいよ「青切符」の制度が始まりますね。反則金を取られるのは、やはり気分の良いものではありません。自転車が原則として歩道走行不可であることは承知していますが、トラックが激しく行き交う狭い県道の、しかも高低差100メートルもある上り坂を車道で走るのは、なかなかに勇気がいるものです。渋滞を招くのも心苦しいですし。そこでふと思い立ち、ストリートビューで確認してみたところ、幸いにも自転車走行可の標識を見つけることができました。区間指定のないパターンだったので少々不安は残りますが、きっと大丈夫でしょう。もし何かあれば、ネットの知恵を拝借して冷静に対処しようと考えています。田舎道ゆえの長閑さに期待したいところですね。 そんな寒空の下でも、月間220キロの走行距離や筋トレ、朝のヨガといった習慣はなんとか継続できています。以前お話しした「馬と御者」の例えで言うところの、私の内なる「お馬さん」が頑張ってくれているおかげです。「ご飯を美味しく食べたい」という切実な動機が、私の原動力であり「こころざし」そのものになっているわけですが、どうにも今回ばかりは「一番思考」が捗りません。「一番思考」とは、早起きして朝ヨガを終えた後の貴重な一時間を思考に充てることなのですが、正直に申し上げますと、ここ最近はたった...

165. 山登る船

 最近、どういうわけか、ずっと「上の空」な自分がいます。仕事に向き合っていても、本を捲っていても、あるいは誰かと語らっていても、どこか心が置いてけぼりになっているような、そんなもどかしい感覚なのです。自分でも薄々、その原因には目星がついているのですが、これがなかなか厄介なものですね。 実を言えば、私の頭の中には常に色々なことが渦巻いています。子供の自転車を新調しなくては、とか、引越し先の物件探しはどうしよう、とか。はたまた、空を覆う黄砂の凄まじさや、先日観終えた『ストレンジャー・シングス』の余韻にまで。まるで、脳内のブラウザに百個ほどタブを開きっぱなしにしているような状態なのです。 困ったことに、その開いたタブのすべてを把握できているわけでもありません。それなのに、どうしても閉じることができずに放置してしまう。ふと手元のパソコンやスマートフォンに目をやれば、実際のブラウザも同じように不要なタブで溢れかえっていて、思わず苦笑してしまいます。そのほとんどが、後で見返せばどうでもいいようなことばかりで、結果として一度も見ることなく閉じてしまうことも多いのですが、中には優先順位の高い、切実な問題も混ざっているから無視もできないのです。 ずっとそんな状態が続いているせいか、脳のメモリが足りないというか、とうにキャパシティを超えてしまっているのかもしれません。単純に情報の断片化が進んでいるのかと思うと、なんだかやるせない気持ちになります。 ですが、いつまでもこの「脳内の飽和状態」を放置しておくわけにもいきません。果たして自分にどうにかできるものなのかは分かりませんが、解決すべき漠然とした課題として、ようやく自分の中で形になってきました。そこで今回は、この「上の空」というものの正体に、少し真面目に迫ってみたいと思います。 今回の思考実験は「山登る船」 男は船頭の多い船に乗った。それぞれの船頭がそれぞれの指示を出し、ついに船は山を登る。 当然ここは目的地じゃない。男は船頭を1人に任命し、目的地を告げる。 以上です。 コメント欄からぜひあなたの考えをお聞かせくださいね。 もしくはGoogleフォームからどうぞ https://forms.gle/9LyXvraEXV6Am2hy9

164. 爆竹

 最近は、なんだか色々と立て込んでいるような気がします。実際のところはどうなのでしょうか。少し落ち着いたような、あるいはまだ渦中にいるような、そんな曖昧な日々を過ごしています。 そんな状況もあってか、ここ最近の私は「アウトプットが足りない」だとか「インプットばかりでバランスが悪い」といった話ばかりしていたように思います。しかし、ふと立ち止まって考えてみました。「ちょっと待てよ」と、薄々感じていた違和感の正体に気づいたのです。実は、このポッドキャスト自体が、なかなかにハードなアウトプット、いわば「くりだし」そのものだったのではないか、と。 毎週たった20分の放送のために、それなりの時間をかけて台本を練り、録音し、編集してアップロードする。これはもう、存分に「出し切っている」と言わざるを得ません。思わず自分自身に鋭いツッコミを入れたくなるほど、実はしっかりと出力していたのですね。バランスが取れていないどころか、むしろこの出力があるからこそ安定し、こうして自然に活動が続いてきたのかもしれません。内側から溢れ出してしまったもの、それがこの形だったのでしょう。 そもそも、私が自分の中で定義していた「くりだし」とは、いわゆる副収入を得るための行動、つまり「コイン集め」のようなものでした。これまでは「収益を得るための出力全般」という要素が強すぎたのかもしれません。無理やり捻り出す仕組みを作ろうとしても、いまいち作動せずブレーキがかかってしまう。その障害物は何だろうと考えてみたところ、どうやら「採用されること」が目的になっていたようです。選ばれなければ続かない、そんなプレッシャーがどこかにあったのでしょう。 けれど、もし「出すこと自体」を目的としてしまえば、それはもう立派な「遊び」になります。 そこで、これから半年間の方向性を少し考え直してみようと思います。まずは、自分の「キャラクターデザイン」を整えることから始めてみようかと。自分のものとしてデザインをすることに主眼を置き、コンペへの提出はあくまでおまけ。そもそもは遊びの延長として、まずはやってみることにします。 これは、一種の人体実験のようなものです。コンペの主催者の方には、もしかすると不真面目に見えてしまうかもしれませんが、たとえボツになったとしても、それは自分の大切なキャラクターとして手元に残るだけのことですから。自...

163. 循環

 先週から今週にかけて、なにげに仕事が忙しく、慌ただしい日々を過ごしております。この時期は一年の中でも一番の「くりだし」仕事が入る時期でして、私にとっては毎年の恒例行事のようなものです。あらかじめ織り込み済みの予定ですから、ただ淡々と、やるべきことをこなすのみ。実を言えば、このために日々働いていると言っても過言ではないほど、体力の消耗はさておき、どこかこの状況を面白がっている自分がいます。ですから、何の問題もありません。 ただ、不思議なものですね。こうしてわざわざ時間を割いて現状を言葉にしてみると、何だか違うメッセージとして伝わってしまうような、そんな気がしてなりません。私の言い方のせいでしょうか、あるいは考えすぎでしょうか。どうかすると、何かしらのネガティブな感情を汲み取られてしまうのではないかと、そんな杞憂を抱いてしまいます。 一般的に「働く」や「仕事」、あるいは「残業」といった言葉には、特有の重苦しいニュアンスがつきまとうものです。もし誤解を避けるために「稼ぐ」や「ミッション」と言い換えてみたとしても、それはそれで何だか違う気がいたします。白黒はっきりつける必要もないのでしょうが、物事には常に含みや幅があり、どちらかに少しだけ寄っている、という絶妙な加減があるはずです。そうした細かなニュアンスの差を表現することこそが、語り手の役割なのでしょう。しかし、それが上手くできない自分に、少しばかりの致命的なもどかしさを感じてしまいます。 伝わらないもどかしさから、ついこうして要領を得ない話を長々としてしまうのだと、今さらながら気づきました。例えば「(ネガティブな)仕事で残業しました」と「(ポジティブな)仕事で残業しました」という二つの言葉。文字にすれば同じですが、声にその機微を込めることができたら、どれほど素敵でしょうか。このセリフを完璧に使い分けられる人がいたら、ぜひその表現を拝聴したいものです。 さて、少々強引ではありますが、ここで話題を転換させていただきます。前回「代謝」についてお話ししましたが、蓋を開けてみれば、ここ一週間の私は仕事の忙しさに感けてばかりでした。仕事としての「くりだし」は多いものの、私個人の表現としての「くりだし」はお休み状態。それどころか、時間の都合で「とりいれ」すらも薄くなってしまっています。それはそれで、今はそうしたい時期なのだと...

162. 代謝

 「選択的注意」という言葉を意識し始めてからというもの、その存在が片時も離れずについてくるような感覚に驚いています。追いかけられているのか、あるいは自ら追いかけているのか。本来は脳が情報を取捨選択するフィルター機能を指す言葉として、何気なく使っておりましたが、果たしてこの使い方が学術的に正しいのかと、ふと自問自答してしまいます。 少し調べてみますと、「選択的注意」には意識的に行うというニュアンスも含まれるようです。そうなると、私が伝えたい「無意識のオート機能」という側面が少し薄れてしまうのかもしれません。いっそ「色眼鏡」と言い換えたほうが、今の私の心境にはしっくりくるような気がいたします。言葉選びというのは、つくづく難しいものですね。つい考え込んでしまい、本来何を話そうとしていたのか、一瞬見失いそうになりました。 さて、その「色眼鏡」の話に戻しましょう。自分でお気に入りの眼鏡をかけていることに気づかないまま過ごしていると、案外、その機能はしつこく追いすがってくるものです。もちろん個人差はあるのでしょうが、最近の私にとって、そのフィルターの正体は「80年代」という記号に他なりません。 きっかけは、ドラマ『ストレンジャー・シングス』でした。ようやくシーズン4まで見終えましたが、次はついにクライマックスとなるシーズン5が控えています。これほどまでに濃厚な80年代の世界観を浴びせ続けられると、脳が心地よいバグを起こしてしまうのも無理はありません。日常のふとした瞬間に、何かしらの80年代的な要素を勝手に見つけ出してしまうのです。 ネタバレをするような無粋な真似はいたしませんが、あの濃密なホーキンスの町にどっぷりと浸かってしまった以上、気持ちはもうすっかり住人の一人です。今の私は、色眼鏡どころか、もはや水中ゴーグルをバンドで頭にきつく締め付け、そのことすら忘れてしまっているような状態といえるでしょう。週に1話くらいのペースで、もっと計画的に楽しめばよかったのかもしれませんが、どうにもバランスを欠いた熱狂の中にいます。 今回の思考実験は「代謝」 思考は単なる「出し入れ」なのか?_ それとも自分という入れ物の中で何かが変質していくプロセスなのか?新しいものをとりいれて変質させてくりだす行為の力の源泉は? 以上です。 コメント欄からぜひあなたの考えをお聞かせくださいね。 もし...

161. 呼吸

 今週は調子づいて、勢いに任せて二本目の収録に入りますね。さて、お付き合いいただけますでしょうか。 これまでの人生を振り返ってみても、私と「早起き」という言葉は、実におよそ無縁なものでした。学生時代も部活動に精を出すようなタイプではなく、いわゆる「帰宅部」の看板を背負っていましたから、ちょっとだけ所属していた部活で朝練のために早起きをした記憶すらおぼろげです。たまのイベント事で無理やり体を起こすことはあっても、日常的に早く起きる習慣とは無縁の暮らしを送ってきました。 そんな私が、最近では朝の六時に目を覚ましています。習慣として定着している今の生活が、私の人生史上、最も朝型に近い状態と言えるかもしれません。もっとも、以前の自分が一体何時に起きていたのか、その感覚すらもはや忘れかけているのですが。 それでも、早起きの習慣という「渦」に、どうにも上手く乗り切れないもどかしさが常にあります。基本的には、出かけるギリギリの瀬戸際まで布団にしがみついていたいタイプなのです。「今ならもっと上手く立ち回れるはず」と自分に言い聞かせてみても、結局のところ、朝の目覚めというやつを完璧にコントロールするのは至難の業ですね。なかなか一筋縄ではいきません。 また、昨今よく耳にする「朝活」という言葉も、私にとっては少々眩しすぎるところがあります。元・帰宅部の性でしょうか、あの輝かしい響きには、どうにも気恥ずかしさが勝ってしまうのです。そもそも、私が理想としている時間と、世間一般で言われる定義とは少しズレがあるのかもしれません。例によって、自分なりの独自のネーミングを考えなくては、と思案しているところです。 知の巨人、外山滋比古さんは「寝起きの脳には素晴らしいポテンシャルがある」といった趣旨のことを仰っています。しかし残念ながら、私は未だにその貴重なリソースを、夜な夜な使い切ってしまう生活から抜け出せずにいます。それもこれも、すべてはドラマ『ストレンジャー・シングス』の誘惑のせいなのですが。 「いっそ早く寝て、朝にドラマを観ればいいのではないか」と、一瞬は名案のように考えました。しかし、果たしてそれが外山さんの説く「それ」に繋がるのかと言えば、甚だ疑問です。単なる情報のインプット、いわゆる「とりいれ」の時間になってしまうのではないか。そんなことを、静かな朝の空気の中で悶々と考えております...

160. 現状維持ハウス

 心のときめき、いわゆる「キュン」とする感情は、きっと世界共通のものなのでしょうね。韓国ドラマを観ていても、これでもかというほどその要素が詰め込まれていますが、結局のところ、どの国の物語にも多かれ少なかれ存在するものなのだと感じます。もちろん、文化や宗教が異なれば、描写の作法や心の琴線に触れる「ツボ」は違うのでしょう。それでも、誰かの心に火が灯る瞬間というのは、普遍的なテーマなのかもしれません。 実を言えば、このポッドキャストの第150回から5回にわたって「キュン」にまつわるエピソードを取り上げて以来、どうにもそこばかりに目がいくようになってしまいました。「選択的注意」というのは実に不思議なもので、一度意識し始めると、日常のあらゆる場面でそのポイントを探してしまうのです。自分でも「キュン奉行」かと思うほどに、あるいは心の「渦」を監視する番人のように、我ながら少々騒々しいなと感じるほどですが、それだけ興味が尽きないということなのでしょう。 最近、Netflixの『ストレンジャー・シングス』を鑑賞していたのですが、これがまた「キュン」の大洪水でした。冒頭からアメリカンな積極性で愛を交わす場面が多く、文化の違いを突きつけられる思いですが、それもまた一つの形なのでしょうね。80年代という時代背景も影響しているのかもしれませんし、一応は時と場合を選んでいる……のかもしれません。あまり語りすぎるとネタバレになってしまいますが、子供たちの純粋なやり取りや、大人のあまりに不器用な姿には、どこか惹きつけられるものがあります。それらは予測認知誤差から生まれる、ある種の「渦」なのではないでしょうか。自分と他者の境界を探り合うその過程は、国境を越えた共通の問いなのかもしれない、そんな視点を持ちながら作品を楽しんでおりました。 さて、そんな思索に耽りながらも、年末には忘年会をこなしつつ、家族で観光登山に出かけました。スニーカーでも登れるような、とある地獄を覗けることで有名な山です。あいにくの大行列で肝心の地獄を覗くことは叶いませんでしたが、急勾配のコースをかなりのペースで昇り降りした結果、ふくらはぎは見事な筋肉痛に見舞われてしまいました。うっすらと腰にまで違和感があり、「日頃の筋トレの成果はどうしたのだ」と自分に問いかけたくもなりますが、普段とは違う筋肉を酷使した証拠なのでしょう。ご...