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200. 安全な危機

 記念すべき200回目ですけれども、特に何か特別なことはありません。なんにもやりませんからね。いつもどおり、最近はほんと、穏やかな、波風立たない方向に、つまり「ケ」を意識した行動になりがちで、そうなんですよ。もちろん、それは日々を穏やかに過ごすためのエネルギーの蓄え、いわゆる「パ蓄」ですからね。ほんとに意味のわからない、全てに解説を付けないとわからない暗号のような話で申し訳ありません。「ケ」というのは、「ケ」と「ハレ」、あるいは「ケガレ」もあるか、そうです柳田國男の「ケ・ハレ」の概念は、当時、明治以降の生活様式の変化に伴い、失われつつあるものとしての祭礼や年中行事などの衰退を、目の当たりにして、このままじゃいかんぞ、なんて世を憂いたということなんですね。 その頃の大きな変化としては、まず「灯り」がありますね。照明です。暗くなったら寝るという今までの習慣が、この技術革新でなくなっちゃったわけですから。あとは食事の変化もデカいみたいで、以前ならごちそうだったものが平常時にいつでも食べられるようになったとか。それだけじゃなく、安い工業化された洋服の流通で、日常着と晴れ着の概念、当時からしたら明確な違いがあったそれらもなくなってしまったと。さまざまな要因で村社会のシステムも解体されていく中で、人手不足では祭りもできなくなってしまいますね。なんかおかしい、この変化は由々しき問題だと、このままでは日本は壊れる、柳田は警鐘を鳴らしたんですね。 まあ、あるでしょうね。デカい渦が海外から大きなうねりでやってくるんですから。ちょっと今のAIの渦と似てそうです。まあ、いつの時代も、科学技術が今までの生活を壊してきたんでしょうから、そんなもんだといえばそうなのですけど、しかも、そのデカい渦を誰もコントロールできないんですよね。なんか、仕方なく転がっていくしかないというか、毎回そうやって伝統がぶっ壊されて、新しい社会に塗り替えられていく。だから、そうし続けるのが人間で、「わあ便利だ」「いいなこれ」で浸透してことが大きくなると、「あれ?こんなはずじゃなかった」「もっといいものないの」なんてね。まあ、予測がついたとて、それを指摘したところで、「あの人は心配性だ」「時代に乗り遅れただけだ」なんて、全然真剣に取り合わない。 というか、よくわかんないし、内容をあんまり、まあ、目の前の素晴らしい...

199. ゆらめく帷

 境界線シリーズも、今回でいよいよ最終話を迎えることになりました。第195回「繭のほころび」に始まり、第196回「皮膚と雨具」、第197回「蚊帳の中」、そして第198回「庭に埋めた小瓶」を経て、今回のお話へとつながってきます。もっとも、本当にちゃんとつながっているのかと問われると、少し怪しい気もいたしますが、そのあたりの加減はご容赦いただければ幸いです。 そうした一連のエピソードを振り返る中で、ふと頭をよぎったことがありました。スマホという存在は、自分にとって「内」と「外」のどちらに属しているのだろうか、ということです。改めて考えてみると、これはもう完全に自分自身の「内」側に入り込んでいると言わざるを得ません。 記憶や視覚の拡張装置として機能しているだけでも十分に大きな存在ですが、それ以上に私たちの思考そのものへ与えている影響の強さには驚かされます。もちろん、スマホを失ったからといって命まで落とすわけではありません。ですが、感覚としては腕の一本でも折れてしまったかのような、かなりの痛手と不自由さを覚えるのではないでしょうか。自分でも相変わらず少し伝わりにくい例えだとは思いますが、それほどまでに切り離せない存在になっているのです。 私にとってスマホは、間違いなく境界線の「こちら側」に留まり続けています。肌身離さず身につけておりますので、どこかに置き忘れることなど今や滅多にありません。バッテリー残量が10%を切ると突如としてただの重石のようになってしまう危うさや、最近のデジタルウェルビーイング機能による強制的な利用制限のおかげで、私はかろうじて正気を保てているのかもしれません。 ……と言いつつ、実は少し見栄を張ってしまいました。先日もDisney+の制限時間を少しだけ延ばして動画を楽しんだのですが、その後リセットし忘れていた設定値を確認してみたところ、なんと「5時間」に設定されておりました。これでは実質的に無制限と変わりありません。本当に情けない限りです。 やはりスマホという存在は、間違いなく、そして完全に私たちの「自我」を侵食してきています。何かの中心核へ滑り込むかのように、甘美な誘惑を伴いながらスッと内部へ侵入してくるのです。強引にこじ開けて入ってくるのではなく、どこまでも滑らかに、あたかもこちらからの要請に応えるような顔をして近づいてきます。自分の意思で自...

198. 庭に埋めた小瓶

 最近は、できるだけ睡眠を優先するように過ごしています。趣味やエンタメを楽しむ時間も捨てがたいのですが、まずは寝ること。もちろん完璧に守れない日もありますが、少しでも体を休めることを意識するようになりました。 残業が多い日は「とりいれ」がゼロになってしまうこともありますが、それもまた仕方のないことです。残業の夜は深夜0時前後の就寝、早めに上がれた日は21時頃には布団に入るようにしています。そんな日は途中で1〜2回ほど目が覚めてしまいつつも、浅い眠りと深い眠りを繰り返しながら、よく夢を見ます。 夢に現れるのは、決まって過去のワンシーンです。当時の自分や友人たちとの関係性を思い出してみると、今とは感性や感覚がまるで違っていたのだと痛感します。もっとこう、純粋でピュアだったなと感じるのです。月日が流れ、いつの間にか自分もずいぶんと擦れて大人になってしまったものだと思います。 ふと、昔友人からかけられた言葉を思い出しました。「どうしたら、こんな風に育てられるんだろうね」という言葉です。当時は優しいニュアンスで言われたこともあり、どこかお母さん目線のような不思議な一言だなと首を傾げていました。 後日、妻にその話をしてみたところ、「は? お義母さんだったら絶対に大変だったと思うけれど」と一蹴されてしまいました。自分でもよく分かっているのです。どうひっくり返しても、手放しの褒め言葉ではなかったのだろうと今なら思えます。それでも、普通に生きていてなかなか言われない言葉だからこそ、当時の自分には何か今の自分にはないピュアな部分が残っていたのかもしれない、などと都合よくポジティブに解釈してみたりもします。 世の中のさまざまな荒波を知る前の、甘酸っぱく無垢だった頃の記憶。なぜ今になって急にそんなことを思い出したのかは分かりませんが、思い出してしまったものは仕方がありません。当時は本当に何も考えておらず、だいぶ幼かったのだと思います。 昔は昔、今は今。同じ人間であっても、時期によってほぼ別人と言っても過言ではないのかもしれません。得るものもあれば失うものもあり、それを一概に「成長」と呼ぶつもりはありませんが、外側も内側も時間とともに変化していくのが人間というものです。万物流転、などと少し大げさな言葉が頭をよぎりますが、要するに「昔の夢を見て、当時の感覚が少しだけ蘇ってきた」というだ...

197. 蚊帳の中

 AI、いわゆるアーティフィシャル・インテリジェンスですが、みなさんは日常で使っていらっしゃいますでしょうか。 私自身はといえば、仕事でもプライベートでも、もうかなりの勢いでどっぷりと使い倒しております。もはや、これがなかった頃はどうやって過ごしていたのだろうと、自分でも思い出せなくなっているほどです。 新しい技術というものは、あっという間に人々の暮らしに浸透し、当たり前のように定着してしまうものですね。スマートフォンもそうでしたし、きっと昔のテレビもそうだったのでしょう。なかった頃のことをあれこれ思い出しても、仕方がないのかもしれません。……と言いつつ、デジタルデトックスとして3日ほど山にこもり、それらがない世界で過ごしてみたら、何か大切なことを思い出せるのかもしれないですね。ない方が、案外心も身体も休まるのでしょうか。いやはや、どうだったでしょうか。 そんな風に今でこそAIを使い倒している私ですが、そういえば昔、MSXというもので遊んでいたことを思い出しました。MSXと聞いてもピンとこないかもしれませんが、ファミコン全盛期にマイクロソフトとアスキーが開発した家庭用パソコンです。プログラムも扱えるゲーム機といった趣で、当時はユーザーもかなり少数派でした。圧倒的なシェアを誇るファミコン全盛の時代に、なぜわざわざMSXを選んだのか不思議ですが、そのおかげでマニアックな友人たちと深い関係を築けた気もしています。 そのMSXに、今思えばとてもシンプルなチャット型の「AIもどき」がありました。たしか雑誌に掲載されていたプログラムを必死に入力した記憶があるのですが、当時の私はそれにすっかりハマっていました。本当に簡易的なものでしたが、コンピューターと会話ができているという感覚そのものが、たまらなく面白かったのです。 私はしばらく遊んだ後に飽きてやめてしまいましたが、あの頃もっと深くハマった人たちもいたのではないでしょうか。自分でプログラムに改良を加えたりしながら没頭し、もしかするとそんな体験を経た人が、今のAIエンジニアになっているのかもしれません。そう考えると、なんだか胸が熱くなりますね。 しかし、当時の拙いプログラムでさえかなりの衝撃だったのですから、今のAIの進化には本当に驚かされます。あまりにも話が通じるので、中に人間が入っているのではないか、あるいはAI自身...

196. 皮膚と雨具

 ここ最近、災害がもはやシャレにならない深刻さを帯びてまいりました。線状降水帯が同じ場所に居座り続ける現象について、十二年前の広島における土砂災害の当時は驚きこそしたものの、正直なところどこか他人事のように捉えておりました。しかし、今となってはその脅威が痛いほどよく分かります。あのエリアに身を置くということは、まさにシャワーヘッドが常に自分の方を向き、蛇口全開の水流で延々と噴射され続けているような状態なのです。少し勢いが緩まったところで、まだ水は止まりません。洗面器の水はたちまち溢れ返り、もし排水溝でも詰まっていようものなら、その結末は火を見るより明らかでしょう。 そして不肖わたくしの住まいも、まさにそうした事態に見舞われてしまい、この一ヶ月強の間に駐車場が三度も冠水するという憂き目に遭いました。もう「百年に一度」などという表現は、そろそろ控えた方が良いのではないかとさえ感じてしまいます。仮にそれが事実だとしても、この悲惨な事態が百年に一度なのだと安心していた矢先に、わずか一ヶ月後再び同じ目に遭うなどというのは、あまりにもあんまりというものです。まあ、確かに一度目の被害の方が深刻ではあったのかもしれませんが、地の利や地盤の関係もあり、より甚大な被害へとつながっていくのではないかと不安が募るばかりです。街を歩けば「ここ、ぼちぼち危ういのではないか」と感じられる箇所も少なくありません。「次の大雨で崩落してしまうのではないか」といった不安を抱えつつも、せいぜい注意しながらその脇を通り過ぎるよりほかにありません。なぜなら、まだ通行止めの措置が取られているわけでもなく、コーンやロープが申し訳程度に張られているだけなのです。状況は常に刻一刻と進行しているのでしょう。私たちにできるのは、ただただ警戒心を怠らないことだけです。本当に気が滅入ってしまいます。 そんな緊迫した状況の中、お盆もシルバーウィークもすっかり籠城状態となり、あちらこちらで道路が通行止めに見舞われました。結果として、半ば強制的に「おうち時間」を過ごすことになったのです。まあ、そうした時期にはDisney+の作品群に深くお世話になりました。ほかにも、自身の音楽的嗜好を改めて掘り下げてみたり、AIを活用してみたりもしました。もっとも、こちらの分野にはとんと疎いため、おすすめされるがままに提示されたリストを聴い...

195. 繭のほころび

 最近の仕事ぶりを振り返ってみますと、あらゆる物事をコントロール下に置き、極力変数を少なくしようとしすぎていたきらいがあったのかもしれません。例のYouTuberの方が来社された折に、出し抜けにそう感じたわけですが、正直なところ、自分はまだまだ柔かったのだなと思い知らされました。あぁ、見事に食らっているな、削られているなと痛感した次第です。 たまに観光地などでYouTuberが撮影している場面に出くわすことがありますが、そんなものは横目で見るだけで、どこか他人事としてやり過ごせます。しかし、いざ自分が撮られる側に回ってみると、もう何もできないものだなと、自分の弱さを思い知りました。 とはいえ、これもこれまでの環境ゆえのことであり、一度こうして洗礼を受けたからには免疫もできました。次回このような機会があっても、今度こそすぐに対処できることでしょう。まあ、すでに済んだことですし、もういいと言えばいいのですが、せっかくの機会ですので、今回はこのテーマについて少し深く考えてみたいと思いました。 もちろん、何もしないで波風を立てず、いつもの日常のまま進行するのも構わないですし、伝統的な道筋を守り抜くのも一つの方法でしょう。しかし、万物流転のこの世の中において、変化から目を背けてばかりもいられません。時代の速度に合わせていこうにも、いつでも波に乗れるほど器用ではないため、おそるおそるではありますが、その時々のありさまを見て道筋を変えるという姿勢自体は大切にしていきたいものです。 そんなわけで、今回から全5回にわたり、自他境界の視点からこの出来事を一旦取り上げてみようかなと思った次第です。頭では理解していたつもりだったのですが、いざとなると身体がまったく追いついていなかったあの何とも言えない心地を、改めて紐解いていきたいと思います。 今回の思考実験は「繭のほころび」 急激に外部環境からの影響を受けた時、ガードを固めて身を守るのか。それとも影響を取り入れて環境に順化していくのか。 以上です。 コメント欄からぜひあなたの考えをお聞かせくださいね。 もしくはGoogleフォームからどうぞ https://forms.gle/qUQFaEM8CmeLXhec8

194. 過渡期の風景

 秋口特有な心情なのでしょうか、なんとなくセンチメンタルに、おセンチな気分になりがちです。気温差から自律神経が乱れたり、日照時間の減少によってセロトニンやメラトニンが減るなど、理由を挙げればそれなりにありそうですが、まあほんとにこの時期って気分が不安定になりがちです。だからこそ、あえて低速でやり過ごそうと、いつも以上に戦略的に、より「ケ」の日常で今年はいってみようかなと計画しています。はい、もうここは逆らわずにいこうと思います。 最近ずっとこんな調子ですが、でもまあしょうがないですもんね。いや、ここんとこの雨、いわゆる秋雨前線ですね。日本の上空の上下の気圧にガッチリとホールドされていて、温暖化の影響で蛇口が全開になったような雨雲のシャワーが続いています。で、そのシャワーヘッドがどっちを向くのかは、今のところまだよくわからないようです。 現在の雨雲レーダーはあくまで直近の限られたデータを集めて今後一時間を予測しているんだそうで、いわば雨雲の連続立体データからの予測です。既存の技術を利用したり、水蒸気量を知るためにGPSや最新のレーダーも利用しているんだとか。ですが、その精度を高める工夫も続けられていて、これからは空気中の水蒸気量などを計測するレーザー光線や、地デジの電波の遅延を利用した新しい計測方法の実証実験もしているようです。 ここに予測するAIとスーパーコンピュータの計算処理技術の進歩が加われば、もっと精度の高い予測ができるようになるということですね。すごいものですし、本当に頑張ってほしいところです。そう、睡眠のためにも心がざわざわしてしまうのです。大丈夫かな、車が水没したりしないかなって、今シーズン二度めの大雨を食らって神経が少し過敏になっています。気象庁ならびに関係者の方々、本当にお疲れ様です。心から期待しております。 今回の思考実験は「過渡期の風景」 新しい連絡手段リザーブボタン。それを利用してアポをとる男。相手からの返答を待たず訪問する。古い連絡方法を用いない理由はなんだろう。 以上です。 コメント欄からぜひあなたの考えをお聞かせくださいね。 もしくはGoogleフォームからどうぞ https://forms.gle/3ENcJyqgV3WhXVrA7