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5月, 2025の投稿を表示しています

125. ドレッシング

 おそらくイネ科だと思うのですが。この時期、5月の中頃くらいになると、私は激しいアレルギーに悩まされます。症状はGoogleカレンダーに記録しているんです。季節性のものは忘れがちなので、メモして記憶を補強しています。でも、これってどんどん記憶力が悪くなる原因なのでは、とも思ってしまいますね。 ちょうど今、収録しているのは5月の真ん中頃なのですが、栗の花の香りがする時期で、この症状がひどくなってきた当初は「何のアレルギーだろう?」と気になり始め、栗花粉アレルギーなのではないかと思っていました。しかし、すぐに早合点してしまったようです。調べてみると、栗花粉による症状の要件がほとんど当てはまらなかったので、どうやらそれとは違うようです。時期的に該当するのは、どうやらイネ科のアレルギーではないかと最近は疑っています。ロードサイドなどでよく見かけるカモガヤという雑草が原因ではないかと考えているんです。自転車通勤は、こういった弊害があるのかもしれませんね。対策が必要かもしれません。このままだと少しつらいです。 まだ病院に行っていないので、本当のところは分かりません。でも、病院に行ったほうが良い気がしてきました。今度行ってこようと思います。それが一番早いですね。よし、行ってきます! と、この突然の決意表明はどういうこと。いつもはなかなか病院に行かないタイプなので、こうでもしないと重い腰が上がらないんです。セルフメディケーションだけではどうにもならないこともある、ということをいい加減覚えるべきですね。そう、なぜか自分は大丈夫だと勝手に思ってしまう節があるんです。呑気なもので、これって恒常性バイアスでしょうか?それとも楽観性バイアス、つまり楽観主義ということなのでしょうか。 そういえば、これとは少し違うかもしれませんが、その楽観主義が原因で、飲み会で絡まれたことを思い出しました。連想して、また過去の話をぶり返してしまいましたね。 当時、激しい言葉を浴びせられたのを覚えています。相手からすれば、傍から見ていてヤキモキしたのでしょうね。彼は、私が全然やるべきことをやっていないと感じたのだと思います。当時、私は「レール」を外れてしまっていました。悪いことをしていたという意味ではなく、ただの落伍者でした。挫折して、プータローをしていたんです。だから、出世街道というか、良い大学に入って...

124. 自律型人間

 どうも最近疲れておりまして、倦怠感といいますか。 またかと。定期的に口にしている気がします。でも、そうなんです。何も話したくないような感じなんです。 なんだか疲れる時って、ありますよね。原因はいろいろ複合的にあると思いますが、どうも、一つにまとめたがる傾向があるといいますか。いえいえ、でも本当に、大抵の場合、大きな原因が一つあるパターンが多いものなんですよね。今回のも、そうなんです、分かりました。これはただの睡眠不足でしたね。 そんな日は、つべこべ言わずに何も考えずさっさと寝るに限りますね。そうしたら次の日には回復しているものですから。実際、そんなものなのですよね。実は最近、ちゃんと寝る時間が来たら寝る、という当たり前といえば当たり前なのですが、若い頃にはなかなかできなかった習慣が身についてきたようで、寝不足にならずに過ごせていたのです。だから余計に、寝ていないとダメージがすぐに、如実に現れてしまいます。 これもここ数年の外的要因から身についた習慣だと思います。免疫力を下げることはしないという「こころざし」が、私の知らないところで常に働いていたのですね。これは今もしっかりと機能しています。そう考えると、私はそうやって、環境から常に何らかの影響を受け続けているのですね。 しかもその行動の変化、一時期は新しい生活様式とか、ニューノーマルなんて言葉も使われていましたが、その行動変化の由来を忘れてしまうということが、「今を生きる」とか「現在しかない」という発想を思い出させてくれますね。もうあの頃のことは結構忘れてしまいましたけども。 確固たる信念に基づいて計画的に物事を遂行することというのは、おそらく起点が過去の一点にあることが多いのではないでしょうか。計画を立てた過去の時点が、その時の「現在」であったわけですから、そこを起点にしている、ということですよね。当たり前のことでしょうか?いや、そんなこともないのかもしれません。過去の一点に、強く方向を決めた瞬間がある。それはそうでしょう。 ああ、でも、それを毎日上書きで精査しているのであれば、それは「現在」を起点にしていると言っても良いのかもしれません。ただ、おそらくほとんどの人は、過去の一点を起点として持ち、それを常に更新させていく、ということはせず、そのまま遂行しているのではないかと思います。つまり、言い方を変える...

123. このびっくり箱あけてみて

 最近、ドラマ「対岸の家事」を見ています。とても面白いですね。ネタバレはしませんが、引き込まれるストーリー展開です。ドラマを見てますよ。本当にエンタメ摂取だけは捗りますね。 あとは本も読んでいまして、池田晶子さんの「14歳からの哲学」を読みました。これは以前もお話ししましたでしょうか?忘れてしまいましたが。とても考えさせられる一冊でした。そのあと、平野啓一郎さんの「ある男」を読みました。こちらも素晴らしい作品でしたね。どちらもとても良い作品でした。これ以上お話しすると、ネタバレしそうなので、このあたりにしておきますね。一体何のご報告でしょう、という感じです。 さて、音声の録音をしている週ですが、ゴールデンウィーク前半が終了しました。こういう時くらい、収録を休んでも良いかなあ、とも思ったのですが、もうすっかり習慣になっていますので、まあ続けてしまおう、と思いました。いつも会社の帰りに録音していますので、暦通りですと出勤日がありますから、ならば通常通りで、ということになりますね。 とはいえ、録音できるのはマイカー通勤時に限られるのです。そう考えると、少し日が絞られてしまいますね。自転車通勤の時以外ということになります。実は、自転車通勤の日を増やそうかという話もありまして。そんな、数少ないマイカー出勤日の中で、さらに録音できるタイミングがバッティングしたりするんですよね。何かを得ようとすると、何かを諦めなければならない、というのはまさにその通りで。でもまあ、ありがたい、贅沢な悩みかもしれません。休日は休日で、休みの日にしかできないことに時間を使いたいものですから。 休日にやりたいことも、本当に色々あるんです。休日のやることリストも、うまくこなせているのかどうか...。家族と過ごす時間も大切ですが、今年の私の畑、はい、家庭菜園のことですが、ようやくリーフレタスが収穫できるようになってきました。昼食のサンドウィッチに、もう挟み放題で楽しんでいます。どんどん育ってきましたので、良い感じです。 そうそう、自分で言うのもなんですが、なんだか面白くて。朝採れのレタスを挟んだサンドウィッチなんて、ちょっと気取っているみたいで、自分でツッコミを入れたりもしています。今回やってみてわかったのですが、寒い時期はあまり育ちが良くなかったんですよね。種まきの時期は難しいなと感じています。...

122. 岩石に阻まれて

 春の陽気がとても気持ち良い季節になりましたね。 私は週に2回、たまに1回くらいのペースで自転車通勤をしています。月に200km以上走るという自転車走行のノルマがありますので、そうしているのですが、さて、これは一体何のためでしょうか?ついつい忘れがちになります。あれ?これ、何のためにやっていたんだっけ?健康?ダイエット?何だったかな、ということが私は今まで割と多くありまして、そんなことは普通のことなのかもしれないけれど、でもそれは目標を見失っているとも言えそうですよね?下手したら、それが習慣をやめてしまう理由になっているような気もしないでもありません。 「初心忘るべからず」ということわざがありますね。「習い始めの頃の謙虚で真剣な気持ちを忘れてはならない」と、辞書を引くとそんな内容が出てきます。これね、私的には、この「初心」は「こころざし」で、この「こころざし」は、私はひらがなで表記しています。はい。意味は、「真剣な気持ち」というより、やりたいことのエンジン、熱意といいますか、それのためにこれをやっているし、だから頑張る、というコア、結晶のような、まあ、そんな感じです。基本、根本、でも忘れないように、時々リマインドする感じなのです。そんなに大事なら忘れるな、と自分でも思います。本当にそうですよね。そんな大事な原動力なのですから。でも、これが当たり前になってくると、なぜか、いつの間にか忘れてしまうことがあります。まるでエンジンの故障で動かなくなるようなものです。 ええ、それで、私の「こころざし」はというと、「ごはんを美味しく食べたい」ということです。とてもシンプルですね。そのためには、自転車で月200km走ることは「ねらい」です。これは、目指す具体的な地点のような感じでしょうか。「こころざし」のために必要なこととしての「ねらい」、でしょうか?空腹や健康は「美味しい」に直結しますので、そんなところです。はい。いや、そんな、私の習慣化メソッドの説明をするタイミングじゃないですよね、今は。え?習慣化のメソッド、時々出てきますけれども、しかも、なんだか毎回話す度に、若干修正されている気がします。まあ、これがブラッシュアップ、思考の過程だということで。言っても、そんなメソッドだって、はじめから完成しているわけではないですからね。 さておき、話が逸れてしまいましたね。言いた...

121. 屋台スルー界隈

  だんだん暖かくなってまいりましたね。なんだかぼんやりとしてしまいます。わたくし、子どもの頃はよくマイペースとか、のんびり屋だとか言われていました。子供の頃と言いますのも、なんだかしょっちゅう世間に対して「これ、どうすればいいんだろう?」といったことばかり考えていたものですから、どうも周りのペースにうまく乗れず、なんだか世知辛さを感じていたように思います。 でも、そう思ったことがエピソードとして強く印象に残っているだけで(実際は)ほとんど周りに無関心で、大概呑気にやっていたのかもしれません。同じようなマイペースな友達もいましたし、その中ではとくに「ああしなさい、こうしなさい」みたいな要求をされたりなんてことはなくて、そういうものがないからこそ、気楽な友達だったのかもしれませんね。何かをさせようとしてくるタイプの人とは、あまり関わらないようにしていたのかもしれません。 いいえ。少し違うかもしれません。自分がやりたいことだったら、それをさせてこようとしても大丈夫でしたから。放課後のファミコンの相手などはいい例で。あとはその子のキャラクターも関係しているはずですし、選択肢を提示してくれるパターンだと乗りやすい、ということもあったように感じます。だけどまあ、自分にとって嫌なことをやらせようとしてくるなんていうのは問題外なのは言うまでもありませんね。 もうずいぶん前のことなので、細かいことは忘れてしまいましたが、それにしても記憶を掘り出す作業って、何かのお役に立つのでしょうか…。 ともあれ、詳細は忘れたものの、自分の立ち位置的な、生活スタイル的な、ざっくりした構造はなんとなく覚えていて、概ねメインストリームからは一線を画して、付かず離れずの距離感を保っていたように思います。だから、本当は嫌だけれどたまには嫌なことも引き受けてみたり、やらないときはきっぱりやらない、といった感じでしょうか。で、そうすると、同じような人がいるものですね。そういう立ち位置というか、そんな友達と仲良くさせてもらいました。 だから、そう考えると、評価なんかはそんなに気にせず、自分の渦をつくりつつ、社会の渦に沿いつつ、まあ、そんなの、自分の性質というものがありますからね、できることをして、ポジティブに、必要以上に悩むということはないのだろうと思いますけど、いや、悩むときは勝手にそうなってしまうも...