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4月, 2025の投稿を表示しています

120. 砂の城

  物価が本当に高くなりました。ここで財布の紐を締めてしまうと、経済が停滞してしまうのではないかと危惧しています。しかし、現状を考えると、そのように考えるのも無理はありません。 このような時こそ、消費を後押しするために、インフレを逆手に取るくらいの勢いが欲しいものです。現金給付ではなく、期限付きのクーポンやキャッシュレスのポイント還元など、使わざるを得ないような施策があれば良いのですが。 しかし、このような考えは庶民感覚に過ぎるのでしょうか。国政は、もっと複雑な要素を考慮しなければならないのかもしれません。 物価が上がり、財布の紐が締まり、売上が落ち込み、給料は上がらない。まるで絵に描いたようなスタグフレーションです。ハイパーインフレは絶対に避けなければなりませんが、日本はインフレ基調に上手く乗っていくことができない国民性なのでしょうか。 デフレが染み付いていて、少し物価が上がると買い控えをしてしまう。米の値段が高いと嘆くのではなく、このような状況に陥ってしまった原因を冷静に分析する必要があります。 もちろん、戦争による小麦不足や食糧問題も影響しているのかもしれません。しかし、詳細な情報はまだ掴めていません。 怪我が大きくなる前に、消費が落ち込まないような施策を早急に講じていただきたいものです。他力本願ではありますが。 定額減税やガソリン補助金など、既に景気に影響が出そうなところには対策が講じられているようです。しかし、傷口が大きすぎて血が止まらない状態なのでしょうか。あるいは、傷口を広げるようなことをしている人がいるのでしょうか。 「欲しがりません、勝つまでは」という言葉が思い出されますが、今はそのような状況ではありません。 国家中枢の皆様は、今も懸命にアイデアを練っていらっしゃるのでしょう。しかし、内部の権力争いなどもあるのかもしれません。 渦はそう簡単に止まらないでしょう。精神衛生上、吐き出したい気分です。「王様の耳はロバの耳」と叫びたい心境ですが、私は床屋でもありませんし、隠された真実を知っているわけでもありません。 ここで話したところで、あまりスッキリはしないかもしれませんが、使わないと消えてしまうようなお小遣い施策があれば良いのにと、切に願っています。 今回の思考実験は「砂の城」 1. やっと仕事が実を結びそうだ 2. 何度も調整をしてもうすぐ完...

119. 急がば回った理由

  春がやってきましたね。録音時点は4月の第一週で、暖かい日と寒い日が交互にやってきます。先日、公園へ散歩に出かけましたが、そこはすっかり春の装いでした。木々は花を咲かせ、桜もちらほらと見られます。花粉や黄砂が飛んでいるので、手放しでは喜べませんが、やはり春は良いものですね。 ただ、最近の春は少し手加減を知らないようです。いきなり夏日になったりと、寒暖差が激しくて体がついていきません。本当に驚いてしまいます。着るものでなんとか対応したいと思っています。夜に暑く感じる時があり、少し寝苦しいのが難点です。そういう意味では、まだ寒い方がぐっすり眠れて助かります。 とはいえ、睡眠の質は運動や「マインクラフト瞑想」で改善できるかもしれません。この点についても研究してみたいと思っています。最近、深い眠りを一晩で数回も経験していたので、一回だけの深い眠りでは満足できなくなってしまいました。原因としては、お酒や糖分、食事量が考えられます。食べ過ぎには注意が必要ですね。これも意識して研究していきたいと思います。 とはいえ睡眠の質が良いに越したことはありませんが、それが最大の目標というわけではありません。適当に、簡単にできることならば取り入れていきたいくらいに考えています。いずれにせよ、冬から春への移り変わりは気分を高揚させてくれます。外に出たいと思う人がたくさんいるのは、自然なことなのでしょうか。 これは心理学でいうイド、快楽原則なのかもしれません。重度の花粉症の人には当てはまらないかもしれませんが、おおむね桜は人を外に連れ出す魅力を持っているように感じます。もちろん、人それぞれ感じ方は違うでしょうが、少なくとも私はその魅力に引き寄せられています。アフォーダンスですね。 桜の開花はばらつきがありますよね。同じ公園でも、同じソメイヨシノでも、よく咲いている場所とそうでない場所があります。よく咲いている場所には、たくさんの人が集まって楽しそうにしていました。それぞれが気分良く過ごしている様子を見ると、それも含めて花見の楽しさだと感じ、私も外に出たい気持ちになります。 これこそまさに無意識に、花見が楽しいという「刷り込み」が毎年更新されているのかもしれません。年に一度の行事なので、その楽しさパッケージを翌年には忘れているのでしょう。だから、「桜を見に行く」という行為の中に、楽しい光...

118. カレーパン電車

 前回に続いて考えてみたいことがあるのです。精神分析の世界における「無意識」についてです。高校3年生の頃、私は本当に色々なことが分からなくなってしまい、藁にもすがる思いで心理学や精神分析学、哲学などの新書をしばらく読んでおりました。 今思えば、当時の私は迷いに迷い、ぐちゃぐちゃの状態だったのでしょう。まるで渦に飲み込まれたり、弾き飛ばされたり、巻き込まれたりしているようで、全く状況が掴めませんでした。 しかし、読書を通して問題に焦点を絞り込んだことで、一時的に悩みがぼやけるような、分かったような分からないような感覚になったんだと思います。ガイドとなる考え方を得たことで、当時の私は一瞬救われたような気持ちになりました。読書による一点突破で現状を打破しようと試みていたのでしょう。 手をこまねいていた訳ではないという、いわゆる「やってる感」を得て、少し安心していたのかもしれません。そんな言い方は無いですね。当時の私は、生まれたての子鹿のように危うい状態でしたが、周りの人たちはそっと見守ってくれていました。本当に感謝しかありません。 人生は大変なことも多いですけども、深い味わいがあるものですね。皆さんも、そんな隠し味のような経験をお持ちのことと思います。 さて、本題の「無意識」という概念ですが、これが本当に難しいのです。分かったような分からないような、安易に扱える問題ではないと承知しております。 小此木啓吾さんの言葉だったか定かではありませんが、「生半可な知識で精神分析の真似事はするべきではない」という忠告が、今も私の心に楔のように残っています。精神分析的なことを完全に止めてしまった訳ではありませんが、無意識が行動や思考に及ぼす影響について、下手に知識を得ることで、かえって超自我が行動規範として悪影響を及ぼす可能性もあると感じています。 超自我の元になったエピソードを呼び覚ますことは、まさに実験のようなものです。その結果、自分がどうなってしまうのか、想像もつきません。 しかし「無意識が行動や思考に及ぼす影響」という概念を知っているかどうかで、何かが変わるのでしょうか。もしこの概念が本当なら、知っているだけで何らかの影響があるかもしれません。超自我として既に知ってしまった以上、無意識の底に鎮座しており、何らかの行動原理として発動し続けている可能性もありますよね?それく...

117. 罪とバス

 最近、エンタメの摂取が止まらないんです。まるで、新たなドーパミン分泌習慣を手に入れてしまったかのようで、少しブレーキが必要かもしれません。以前、ゲームを遠ざけていたのも、やりすぎて生活に支障が出たからですが、それと同じくエンタメ摂取を辞めていたのかもしれない。 おっとうっかり、誤った内面化のサルベージを始めてしまいそうでした。危ない危ない。人間は、日常的に誤った記憶の改ざんをしているのかもしれません。あ、でも、「人間は」というのは言い過ぎでした。主語が大きすぎますね。みんながそうだとは言っていません。ただ、「誤った記憶で上書きする人も、わりといる」くらいにしておきましょう。 そもそも、サルベージとか、フロイトで言うところの超自我の深いところに沈んだ無意識に内面化された記憶とか、よくわからないんですよね。最近では、この超自我の概念自体を疑問視する説もあるようですし。 脳内のこと、精神分析などで検証と解析のようなプロセスを踏むのは、素人が絶対にやってはいけないことのようです。高校生の時に読んだ「精神分析ノート」(確か、小此木啓吾さんの本だったと思います)にも、「素人は駄目よ」と釘を刺されていました。知識として概念をなんとなく入れただけで、タブーにして触れないようにしていたのですが、最近、自分の深層心理に潜り込もうとする変な動きをしそうになっては立ち止まるといったことで、小此木さんの釘が効いているんだなと、改めて感じました。 やはり、こういうのは鍛錬が必要でしょうから、ほどほどに、ライトに抑えておくくらいのところで、考え続けてみようと思います。筋トレもそうですし、本当に、何でもライトでほどほどが良いんですよね。「ちょうどいい加減を探る」それが、私の座右の銘なんです。たまにやりすぎることもありますが、そういうブレも「いとおしいなあ」くらいの許容をしながら、うまく調整して、自己の稼働持続性を優先していきたいです。 記憶の改ざん、これは無意識で、思い出した記憶に脚色が加わっていることに本人も気づかずに、うまく乗り切ろうとする人がいると思うんです。私も含めて。自覚がなく、エピソードの詳細が違うことがあるので、もしかしたら、寝ているときに見る「夢」も、そんな機構のようだった気がします。 過去のエピソード、自分しか当事者がいないものについては、もはやサルベージ不能なのではな...