117. 罪とバス

 最近、エンタメの摂取が止まらないんです。まるで、新たなドーパミン分泌習慣を手に入れてしまったかのようで、少しブレーキが必要かもしれません。以前、ゲームを遠ざけていたのも、やりすぎて生活に支障が出たからですが、それと同じくエンタメ摂取を辞めていたのかもしれない。

おっとうっかり、誤った内面化のサルベージを始めてしまいそうでした。危ない危ない。人間は、日常的に誤った記憶の改ざんをしているのかもしれません。あ、でも、「人間は」というのは言い過ぎでした。主語が大きすぎますね。みんながそうだとは言っていません。ただ、「誤った記憶で上書きする人も、わりといる」くらいにしておきましょう。

そもそも、サルベージとか、フロイトで言うところの超自我の深いところに沈んだ無意識に内面化された記憶とか、よくわからないんですよね。最近では、この超自我の概念自体を疑問視する説もあるようですし。

脳内のこと、精神分析などで検証と解析のようなプロセスを踏むのは、素人が絶対にやってはいけないことのようです。高校生の時に読んだ「精神分析ノート」(確か、小此木啓吾さんの本だったと思います)にも、「素人は駄目よ」と釘を刺されていました。知識として概念をなんとなく入れただけで、タブーにして触れないようにしていたのですが、最近、自分の深層心理に潜り込もうとする変な動きをしそうになっては立ち止まるといったことで、小此木さんの釘が効いているんだなと、改めて感じました。

やはり、こういうのは鍛錬が必要でしょうから、ほどほどに、ライトに抑えておくくらいのところで、考え続けてみようと思います。筋トレもそうですし、本当に、何でもライトでほどほどが良いんですよね。「ちょうどいい加減を探る」それが、私の座右の銘なんです。たまにやりすぎることもありますが、そういうブレも「いとおしいなあ」くらいの許容をしながら、うまく調整して、自己の稼働持続性を優先していきたいです。

記憶の改ざん、これは無意識で、思い出した記憶に脚色が加わっていることに本人も気づかずに、うまく乗り切ろうとする人がいると思うんです。私も含めて。自覚がなく、エピソードの詳細が違うことがあるので、もしかしたら、寝ているときに見る「夢」も、そんな機構のようだった気がします。

過去のエピソード、自分しか当事者がいないものについては、もはやサルベージ不能なのではないかと、うすうす感じています。思い出しても、それは現状に対して整合性を取っている、自己稼働持続性のための燃料補給なのではないかと。記憶全部がそうだとは言いませんが、何らかの「改ざん」というか「脚色」が必要だったパターンは、記憶の反芻をして消化する必要があったんじゃないかと。言いえて妙。自画自賛。

いや、もう、なんのこっちゃですけど、ごちゃついてきました。今回、色々考えたことで、サルベージの必要性が弱まりましたので、もういいです。

そうそう、となると、このポッドキャストは、思考のメモとして、非常に効果的なんだなと。日記の効用が、今こうやって曖昧な記憶の話を通して、表面化してきた意義というか、可能性を再確認できたので、よかったなーと。

いや、そう思ったものの、絶対聞き返さない気がします。だから、基本は「役立たない」というスタンスで良いと思うんです。自分にとっての「ちょうど良さ」って、なんとなくそんなところだと思うので。


今回の思考実験は「罪とバス」

1. いつも遅刻しているシュウは過去をさかのぼる
2. 小学校の遠足で遅刻した記憶を思い出した
3. 弟が大怪我をしてバスに乗れなかった記憶だ
4. その日の朝シュウは階段で弟を押した

 以上です。

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