118. カレーパン電車
前回に続いて考えてみたいことがあるのです。精神分析の世界における「無意識」についてです。高校3年生の頃、私は本当に色々なことが分からなくなってしまい、藁にもすがる思いで心理学や精神分析学、哲学などの新書をしばらく読んでおりました。
今思えば、当時の私は迷いに迷い、ぐちゃぐちゃの状態だったのでしょう。まるで渦に飲み込まれたり、弾き飛ばされたり、巻き込まれたりしているようで、全く状況が掴めませんでした。
しかし、読書を通して問題に焦点を絞り込んだことで、一時的に悩みがぼやけるような、分かったような分からないような感覚になったんだと思います。ガイドとなる考え方を得たことで、当時の私は一瞬救われたような気持ちになりました。読書による一点突破で現状を打破しようと試みていたのでしょう。
手をこまねいていた訳ではないという、いわゆる「やってる感」を得て、少し安心していたのかもしれません。そんな言い方は無いですね。当時の私は、生まれたての子鹿のように危うい状態でしたが、周りの人たちはそっと見守ってくれていました。本当に感謝しかありません。
人生は大変なことも多いですけども、深い味わいがあるものですね。皆さんも、そんな隠し味のような経験をお持ちのことと思います。
さて、本題の「無意識」という概念ですが、これが本当に難しいのです。分かったような分からないような、安易に扱える問題ではないと承知しております。
小此木啓吾さんの言葉だったか定かではありませんが、「生半可な知識で精神分析の真似事はするべきではない」という忠告が、今も私の心に楔のように残っています。精神分析的なことを完全に止めてしまった訳ではありませんが、無意識が行動や思考に及ぼす影響について、下手に知識を得ることで、かえって超自我が行動規範として悪影響を及ぼす可能性もあると感じています。
超自我の元になったエピソードを呼び覚ますことは、まさに実験のようなものです。その結果、自分がどうなってしまうのか、想像もつきません。
しかし「無意識が行動や思考に及ぼす影響」という概念を知っているかどうかで、何かが変わるのでしょうか。もしこの概念が本当なら、知っているだけで何らかの影響があるかもしれません。超自我として既に知ってしまった以上、無意識の底に鎮座しており、何らかの行動原理として発動し続けている可能性もありますよね?それくらい衝撃的な概念ですから。
また自己言及的な話になってしまいましたが、このままでは堂々巡りです。いっそのこと、このまま突っ走ってしまおうかという気持ちもありますが、前回のサルベージ不要論と矛盾してしまいます。どうしたものか、悩ましいところです。
今回の思考実験は「カレーパン電車」
1. 兄弟が多いニルスはいつも食事は争奪戦だった
2. 名店のカレーパンをいただき電車で帰宅中
3. ニルスは空腹だが混雑した電車内でためらう
4. 食べたいという衝動でめまいがした
以上です。
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