141. カラスの行水

 最近、すっかり読書にハマっています。Netflixをほとんど見ていないのは、自分でも少し意外なことです。もっと見るだろうと思っていたのですが、どうやら今は読書のほうが自分に合っているのかもしれません。

なぜだろうと考えてみました。本には、作家の表現がより強く出やすいからかもしれません。作者が作り上げた世界観が、ぐっと心に迫ってくるような感覚があります。もちろん、これは制作の裏側を知らない素人としての推測にすぎませんが。

映画やドラマと比べて、本は基本的に一人、あるいは少人数で制作されていますよね。そのため、作家の思考や主張がストレートに伝わってきやすい気がするのです。映像作品の場合、監督や俳優、スポンサー、音楽関係者など、関わる人の数が多すぎて「船頭多くして船山に上る」状態になりやすい、なんてことになってしまうのかと。多かれ少なかれ。

みんなで協力して一つのものを作るのが悪いことだとは思いません。むしろ、それが多様性につながる側面もあるでしょう。しかし、関わる人が増えることで、配慮や忖度が生まれ、本当に言いたいことが言えなくなってしまうこともあるのではないでしょうか。まさに「言いたいことも言えないこんな世の中」という感じですよね。

多様性を認めることは素晴らしいことですが、同時に言いたいことが言えなくなって、それがかえって表現の自由を狭めているような気もします。一方、互いに言いたいことを主張し合うだけでは、話がまとまらず泥沼になりかねません。そのジレンマを解消するのが、プロデューサーのようなまとめ役の仕事なのでしょう。

ただ、一度関わってしまったら、その「渦」から降りられなくなるサンクコストが発生します。すると、自分の価値観を守るために、匿名の場所で自己主張を激しくしたり、他人を攻撃したりすることがあるのかもしれません。多様な価値観を認めるのが楽な道に思えますが、現実には簡単に変えられないホメオスタシスのようなものがあるのでしょう。

どうしてこんな話になってしまったのか。映画やドラマは小説より周囲への配慮が入りやすいという仮説から、なぜか「表立って言いたいことが言えない世間」の話になり、サンクコストの話まで行き着いてしまいました。

もしかして、みんながそれぞれ自分の乗っている「渦」から降りられずに、もがき続けているということでしょうか。そして、その状況を客観的に見つめることが、今の私には必要なのかもしれません。

自分の行動を制限するバイアスがあったとしても、それが心地よければいいのです。ただ、それが仮想の「敵」を叩くような行為につながってしまうのは、どうなのだろうと考えてしまいます。

この多様性を許すことが、かえって多様性を阻害するようにも思えますし、制限があるからこそ自由が輝くという側面もあるような気がします。

どうにも思考がまとまりません。いつものことですが、頭の中のブレインストーミングが長くなってしまいましたね。そろそろこの辺で終わりにしたいと思います。


今回の思考実験は「カラスの行水」

片っ端から情報を拾うことに忙しいボブ。SNSやニュースの速報を消費する毎日。身近なニュースから地球環境のニュースまで現代の問題をとらえたい。なぜ、なんのためにそれをしてるのでしょう?

以上です。

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